偏差値60の壁なんてない

中学受験のサポート歴20年以上の経験から、心構えや考え方を公開します。

自粛や不謹慎は気にしなくて良いペットボトルの話 勉強の合間の雑談(2)

今回の千葉の停電で、千葉市長の話と吉野家の話をリツイートしたので、指導してる子に人助けについて話すことを少し書きます。丁寧語にすると話す感覚と違ってくるので、省略で。以前の記事と同じで、親の考えを子供に伝えたり、一緒に考える機会にして貰えると良いと思います。

 

何をしないかじゃなくて、何をするか。

神戸の時は、二週間くらいしてから現地に入った。そんなに縁のある土地でも無かったけど、ただ涙が出た。東日本の時は、真っ暗な中トラックで現地に入り、明るくなってから周囲を見た。後から知ったけど、その視界の中には、まだ多くの人がいた。

遠くに自衛隊の隊列が見えた。帰りにも自衛隊の車両とすれ違った。数日後、戻ると一気に行けるところが増えてた。自衛隊すげぇって思った。こっちはちょっと泥かきするだけでへばってる。海保の人がずっと潜ってる話。消防団の人が帰ってこない話。役所の人がほぼ2交代で回してる話。工場がどうにもならない話。いろんな話を聞いた。できることは少ない。

戻ってくるたび、電気がついている街並み、照度を落としたコンビニやスーパーで、物が普通に買えるなんとも言えない感覚。行き来する度に、現実感か何かが狂う感じ。罪悪感とも違う。こっちにみんな連れてきたいような、店ごと街ごと持って行きたいような、時を巻き戻したいような。出来もしない事を、出来たら良いのにって夢想するような、おかしな感覚。

でも、自粛なんて役に立たない。エネルギーでも物資でも人手でも、被災者に直接回せないものは、普通に消費して良い。店頭の生鮮品を買わなくても、悪くなって捨てるだけ。この世界に不謹慎じゃない日はない。いつでもどこかで苦しんでる人がいる。やれるのは、自分のできることをすること。

 

水に落ちた人を助けるなら、ペットボトルを投げる。

例えば、水に落ちた人がいる。助けに飛び込んでも、一緒に溺れるリスクはかなりある。自分も同じ人間だから。人間にとって危険な場所は、自分にとっても危険。溺れてる人と自分の違いは、陸にいて息が出来るか、水中で困難かの違いでしかない。立っている場所が違うだけ。

で、やるべきことは、浮くものを投げる。ロープを投げる。助けを呼ぶ。空の2Lペットボトルが2〜3本も届けば、助かる確率は跳ね上がる。浮くもので掴みやすければなんでも良い。息が出来る状態を確保すると、人は少し落ち着くから、指示も届くようになる。

溺れてる最中に説教しても意味がない。石をぶつけたら助かるものも助からない。自分も水に落ちれば溺れる、ただの人間。陸にいるから偉いってことはない。ただ助けられるものが見えているなら、何か行動したら良い。

ペットボトルを投げるだけなら、自分の身は危なくない。金もかからない。これが大事。世の中には、溺れかけてるやつがそこら中にいる。見えないものは多いし、役に立たないこともあるけど、助かるやつもいる。陸に上がれば、そいつも今度は誰かを助けられる立場になる。

借金でもメンタルでも依存症でも同じ。人にとって危険なものは、自分にとっても危険。驕らず自分の安全を確保して、ペットボトルを投げ続ける。命は一個しかないから取っておけ。余ってる分で良いから、どこかの困ってる人に。

 

続けることの意味。

自分が食べるのを我慢して、一個しかないおにぎりを腹を空かした子にあげるのは、美しいかもしれないけど続かない。自分も腹は減る。余るほどあって、誰でも好きなだけ食えって言える方が続けられるし、タダで配るより、金を持ってる人から貰う方が続けられる。一瞬だけ良い気分になるより、誰かを叩くより、誰かの役に立つことを続ける方が良い。

一人じゃ出来ないことも、人手があれば出来ることは多い。そして、一日で出来ないことも、続ければ出来る。続けるってことは、自分がその日数分増えること。今日の自分と、明日の自分と、来週と来月と来年の自分で協力すれば、いろんな事が出来る。続けるには、飯を食って、寝て、笑え。

外野に褒められる必要なんかない。助けた相手の感謝だってなくても良い。人が元気になるところを見て、それに自分が関わって、ちょっと良いことをした気になれば大体合ってる。自尊心は、自分が尊いことをしたって思える心。人の顔の輝きが与えてくれる。

人を助けるのに、自己犠牲なんていらない。自己満足で良いから、行動しろ。それでも結構、喜んでくれる人はいるし、そいつと食う飯は美味い。誰かを助けたら、一緒に笑え。

 

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私が話すとこんな感じです。割と突っ込んだ話をするけど、子供は結構覚えてる。ほんの10年前には赤ん坊だったのが、今は受験生。そして10年後には社会に出て行く、その中間点。これから社会との接し方を覚えていく入口にいる子供に、自分の経験や考え方を伝えることは、何か残せることもあると思います。